花伝書

〜秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず〜 意外性もあり、感動もありというような情報を発信したいブログです。

若き女性の黒髪

2007-01-22 Mon 06:07:42

 「その子二十歳櫛にながるる黒髪の奢りの春の美しきかな」
 明治の情熱的な歌人、与謝野晶子の有名な歌だ。意味は「その女性は20歳で、櫛でとかす長い黒髪もつややかな若さにあふれ、爛漫とした人生の春を隠すことなくひけちらかしている、そのなんという美しさよ!」、こんな感じかな。素人の解釈ではなはだ心もとないけれど。
 女性は中学生の頃までは髪のボリュームもさほどではなく、張りやつやも強くはない。髪は高校生の頃からつややかに太くなりはじめ、顔立ちも子供っぽさが消えていく。そして19歳、20歳で、量も一段と豊かでつややかな色香をもった黒髪になるのだという気がする。20歳の女性の身体で、ぼくにとって最も美しく感じられる部分は、この黒髪だ。ぼくは他にも、50歳ぐらいの女性の口元の笑いじわの温かさなども好きで、年代ごとに違った部位に魅力が宿る女性というものがうらやましくてならない。



僕の双子の見分け方

2007-01-22 Mon 04:14:38

 マナカナやタッチなど一卵性の双子は外見では見分けがつかない。
 ぼくが中学生のときに仲良くなった友達にも一卵性の双子の弟達がいて「生まれたときから顔を突き合わせているのに一向に見分けがつかなくて困る」と友達はぼくに時々こぼしていた。彼の家では区別がつくのは母親だけで父親も祖父母もお手上げだったらしい。
 ぼくはその友達の家に遊びに行くようになり、双子の弟達もまじえて何度かビデオゲームをするうちに、彼らの区別がきっちりとつくようになった。数時間会っただけの他人のぼくが間違えずに名前を呼び分けるので友達も弟達もとても不思議がっていた。
 どうやって見分けているのか彼らは知りたがったが、ぼくは「何となく違うよ」とあいまいに答えて見分け方を教えなかった。弟達は小学生だったから、その見分け方はちょっと失礼な気がして言い出せなかったのだ。
 今は彼らも大人になりそれぞれが違う環境で生活しているだろうからここに書いても問題はないと思う。
 その見分け方はこうだ。一卵性の双子だし、長い時間一緒にいるわけでもないので顔立ち、髪質、体型、声などの外見は全く同じに見えた。でも全身を包む光の量が違っていた。双子のうち片方を包む光は強く、もう片方のそれは弱かった。白っぽいのと黒っぽいのとの違いだからぱっと見でもすぐにわかる。性格はどちらも気が強く活発だった。全身を包む光の量の差は彼らの生命力の強弱の差からきているようだった。こんなことを言ったら、黒ずんでいるほうは気にしてしまうに決まってるから言うわけにはいかなかった。実際、学校の成績や運動もほとんど差はないのだが、光の量が弱いほうの弟はプレッシャーに弱いところがあるらしく、取り組むものの難易度が高くなるとほんの少し劣ってくるらしかった。
 その後も幾組かの双子と知り合いになることがあったが、この光の量、生命力の違いで彼らを見分けるというのはとても有効だった。まず間違えることはなかった。とは言っても、ほとんど役に立たない特技ではあるけどね。 



子供の時好きだった癒し系の遊び

2007-01-18 Thu 04:24:50

 ぼくが小学4年か5年生だった時に、クラスの女の子とよくやった遊びのお話。
 相手に腕を出してもらい、上腕と下腕のつながったくぼみのところから手首の付け根まで、自分の両手の親指で交互に押さえていく。左手の親指で相手の腕の内側を押さえたら、その押さえた位置のすぐ下を右手の親指で押さえ、次にまた左手の親指でその下を押さえていくといった感じだ。
 ただ押さえるのではなくて、その時一緒に「おなべふ」という呪文を唱える。左手の親指が押さえたときに「お」、次に右手の親指が押さえたときに「な」、次の左手の親指で「べ」、右手の親指で「ふ」。この「おなべふ」を手首の付け根まで繰り返していき、付け根でとまったときの言葉が何かで、その人の本当の性格を当てる。全国的にポピュラーで知ってる人も多いかも知れない。
 呪文の「お」は怒りん坊。「な」は空き虫。「べ」は勉強家。「ふ」は不良。ぼくは、好きな女の子に半そでシャツの腕を差し出しては、この遊びを随分とやったものだった。女の子が「おなべふ」と呟きながらぼくの腕を軽くぎゅっぎゅっと押さえていく。女の子の親指の押しのあまりの気持ちよさに、自然にとろろんとなってくる。背中をなでられて目を閉じる猫そのままだ。
 運よく「ふ」で止まろうものなら、それはビッグボーナスだ。「不良なんかじゃないよ」と言い張ってもう一度「おなべふ」をやってもらう。ぼくのクラスは席替えが多くてそのたびに好きな女の子も変わったから、「おなべふ」をやってもらった女の子の数もあわせて多かった。
 あのときのとろんとした気持ちよさは癒しそのものだったなと今も思う。
 大学生のときにつきあってた彼女にこの話をしたら、
「マグロプレイが好きなのは昔からなのね」と言われた。
 マグロと癒しは似て非なるものなんだけどな。



暖冬と取れすぎた白菜とブログ開設

2007-01-18 Thu 02:26:34

 暖冬だ。木枯らしは吹かないし、霜柱も降りない。空の青さも凍てついた透明感を失っている。水道管が凍らないように栓を開けて水を一晩中垂らしていたのはいつの頃だろう。
 ぼくは茨城県の田舎に住み、両親の農業を手伝っているが、この冬はずいぶんとたくさんの白菜を捨てた。砂利を運ぶ大型トラック3杯分は捨てたみたいだ。たっぷりと漬け込んでも、夕食ごとに鍋で食べても、小学校のウサギにあげても、みじんに切り刻んで鶏の餌にしても、白菜はなくならない。もう太陽の日差しを浴びてしゃきしゃきっとみずみずしく肥えていくばかりだ。
市場価格の値崩れがひどくて捨てるしかなかった。
 自然の恵みから生活の糧をいただいている仕事というのは、こういった無機質の理不尽さに直面することがたまにある。でも、相手が自然だから足を掻くぐらいしかない。まあ、仕方がない。
ただ、朝昼はは白菜の味噌汁と白菜の漬物、夜は具の9割が白菜に支配されているお鍋だったりすると、心のどこかが沈み込み始める。ちげ鍋のときも9割は白菜、石狩鍋でも9割は白菜、水炊きでも白菜、すき焼きさえ白菜だったりするとだ。
 どうせ食べるならもっとおいしく食べてみたいとパソコンで白菜レシピを検索してみた。白菜のロール巻きとか、白菜のクリームシチュー煮とかいろいろある。うはー、うまそうだなって思ったりしながらさらに検索を続けていると、Blogライター募集とかの広告サイトを発見。
(おお、自分のブログで企業の商品やサービスの宣伝をするとお小遣いがもらえるのか、へー、へー)と感心することしきり。お小遣いがもらえれば、白菜をクリームソースで煮たりすることもなく、スパゲテイと和えたりすることもなく、白菜占有率の0%な食卓につくことができるのではないか、これは素晴らしいとさっそくBlogを開設してみました。お〜し、文章を書くスキルを高めてもらった小遣いを握り締めてケンタッキーフライドチキンを買いにいったるどー。
 ところで、昨日の夕食時に「白菜ばかりで飽きちゃうよ」と母親に言ったら、今日は、朝昼晩とおでんになりました。もちろんおでんの具の9割はダイコンでした。ふむー。